Koyama-Kyugu
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小山弓具の歴史(寄稿)

株式会社小山弓具のあゆみ

はじめに

東京都第一地区弓道連盟創立五十余周年おめでとうございます。 今年、還暦を迎えました私は、連盟の設立の当時まだ10歳、小学校の四年生でした。

家業が弓具店ということもあり、父の自転車の後ろに乗り、浜町の弓道場 に連れて行ってもらったのが、弓への実際のかかわりの初めだと思います。 当時木造の弓道場には、運営を預かる鈴木先生とおばさんが居られ、お菓 子を頂いたことを記憶しております。

それから鉄筋に建て替えられ、浜町の道場は現在は三代目になります。そ の都度、当時の先生方が道場の存続や使い勝手で区と交渉していたことを思 い出します。

小学校時代、勉強が嫌いな私は、父と色々の道場に出かけることが大好き でした。この様なことが家業を継ぐきっかけと思います。

小山弓具の歴史

先般、江戸開府四百年で色々な行事が執り行われました。小山家の先祖も四百年前、徳川家康公の江戸開府に五石二人扶持の下級武士として三河より移住したのが、私から一六代前で、弓で暮らしを立てる様になったのは八代前の小山二郎橘が、弓の調整や村取りが好きで弓師になったのが始まりです。 武家屋敷への出入りはありましたが、江戸時代は町のあちこちに遊技場という半弓矢場が在り、又賭け弓が流行るなど、繁盛したようです。その頃は二、三軒の矢場をお客に持てば一家は楽に暮らせたそうです。そして現在に至るまで二度家業が絶える危機がありました。

それは後を継ぐ男子が無かった事、もう一度は幕末の弓師清三郎に、明治維新後の祖父勝之助は弓師では生計が成り立たず、籐細工をした時代があった事です。 そして先代、小山茂治が家業を再興するか、僧になるかの二つの道の選択を迫られ、結局江戸弓師、佐野新五郎二番弟子である根津在住、弓師吉田音吉の所に10歳で口減らし同然のように預けられることになります。 小学校は吉田家から通い、兵隊検査まで奉公していました。その頃が一番辛いときであったようです。雪の降る日に素足で弓を担ぎ、使いに行った事や、教わっていない事を出来ないと、「普段見ていないからだ」と殴られ、「仕事は盗んで覚えろ」「生涯修行」が口癖で苦労話をよく聞かされました。

関東大震災後、神奈川県伊勢原の安田家に住込み職人となり、兵役を終え、福島県平の斉藤勝原弓具店に弟と二人で移り、昭和二年実家へ戻りました。 店を持ち先祖代々から出入りの神田猿楽町の小笠原宗家に改めて出入りを許され、小笠原清明先生より「御弓師」の看板をいただき、これは今でも弊社の家宝としてお店に掲げてあります。

小笠原宗家より当流の式弓を作ることを認許され、唯一の店として清明先生、清信先生、清中先生と三代続いてお許しをいただいております。 父の歴史の中には関東大震災、大戦後の混乱・苦難がありましたが、幸い戦火を免れ、その都度多くのお客様から支援を受けたと聞かされております。 昭和10年頃、多摩川に弓の工場を建て、陸海軍の御用達、そして平成天皇ご誕生には全国学校連盟より献上弓の製作を依頼され、その作品を弟の博と無事納入したこと。【昭和弓】と命名したゴム弓の発明など事業として拡張を果たして行きました。 この頃の先代の自慢は、朝から晩まで寝る間を惜しんでよく働いたこと、又弓具店として初めて自家用自動車を二台持ち、当時としてかなり時代の先端を行っていたなどのようです。

また、先代は矢師癸生録郎の長女秀子と結婚し、矢に関しても知識を深めたようです。母方の祖母、癸生録郎は北区中里の矢師「高間」で修行し、京都からその後、東京浅草に帰り小笠原流の矢の部門を任されていました。 こうして弓具店としての家業は順風万帆とも云えるものでしたが、良き時代は長続きせず、太平洋戦争になり職人が徴兵され、弓具店は休業状態になりました。幸い海軍に出入りがあったので海軍将校用軍刀の製作の仕事を引き受けて事業を継続していきました。 しかし、学生時代から親しかった弓士が次々と出征の挨拶に来たときは、本当に寂しかったと話していました。 前全弓連副会長の上田喬弘先生、月村実先生、小笠原清信先生などは無事に帰還されましたが、多くの方々が戦没されました。特に片腕と頼む弟の博の戦死は悲しく辛かったようです。30歳を超えたばかりの、陸軍伍長でした。

戦時中の変わった話として、陸軍から呼び出しがあり、恐る恐る出頭した ら、弓師の合板技術を高く評価し、飛行機のプロペラを竹で作る相談でした。これを試作する間もなく終戦になり、話はご破算になったようです。 戦後は、弓を引く人も無く、また占領軍の古武道中止命令で、弓具店を営めず、兵役時代に身につけた電気知識を生かした電気モーターの再生販売業をしつつ、武道の復活を待ちました。

昭和26年頃、弓具店への完全復帰をしました。そして愛弓家も次第に増えて来ましたが、六人の子供を持つ大家族、高い税金、弓士はすくなく暮らしは楽ではありませんでした。 そのため神社に破魔矢、破魔弓、御礼の串などを納め生計の足しにしていました。世の中の景気がよくなるに連れ、弓士も増えて昭和三二年に淡路町から須田町に店を移して、学生弓道の復活も相まって家業は順調に進みました。 以上が、七代目小山茂治(号、清芳)の生い立ちです。

八代目・小山雅司

次に、私こと八代目小山雅司の話になります。 六人兄弟の末子に生まれ還暦を迎えてから、人生を振り返るなかで、私が家業を継いだお話になります。

勉強が嫌いで、弓を打ったり削ったりする父の姿、母が竹を削ったりの仕事を見ることや、父が道場に行く時ついていくのが好きでした。 話はそれますが、昔上野の弓師杉山又一さんと重籐弓のことで議論していたのを覚えています。杉山さんは蟇目叩き籐は数に入れないから下に巻く籐は二九ヶ所になる。先代は二八ヶ所と言い張っていました。 杉山さんは私に弓のことも色々教えてくれました。また、巣鴨の矢師石津巌さんと矢の名人、【鳩】一族について話していました。鳩は苗字で三代ほどで絶えたことなど、私の記憶に残っています。

中学時代、私は体が小さく小学生にしか見えなかったのか、あるとき上野駅に矢竹をリヤカーで一人で受け取りに行きました。重い竹を積んでの帰り道、親切なおばさんが可哀相にとジュースを飲ませてくれ、交差点では後を押してくれました。世の中には親切な人 がいるものだと子供心に思いました。 その時代は家の手伝いをすることが当たり前でした。その頃仙台の矢師二代目斉藤勝原さんが、身寄りが無いので当家に住込職人としておりました。私はその勝原さんに矢の基本を仕込まれました。 学校が休みの日は、朝炭を起こし矢の荒矯めをしていました。一日200~300本をこなし、夜には左手の握力が無くなり、背筋が張り、肩が上がらないことがしばしばありました。 勝原さんは「仕事は竹に教えてもらえ、手と目で数量をこなさなければだめだ」が口癖でした。 大学を卒業する頃には、矢と弓はまあまあ出来るようになっていました。

そして九州の横山高芳(黎明)氏の下に預けられました。 九州の仕事場は驚きの連続で、五時ごろ仕事場で音がするので起きてゆくと、横山さん、森六一さん、湯田芳夫さんはもう仕事をしていました。 森さんは私と同年齢、五歳年下の湯田さんなどの仕事の手際よさに感銘しました。 俺に彼らと同じように弓が作れるか?言葉に表せないショックを受けました。 仕事について行けませんでした。関板の加工のとき九州の人はヤスリ、鉋を多用しますが、東京は小刀で削りだします。兄弟子二人に、どっちの加工が早いか挑戦しましたが、そしてもう一つショッキングな事がありました。

家業を継ぐと決めた大学三年の時、日本一の弓師の仕事場を見たいと思い、熊本の松永重児氏(肥後三郎)の所に押しかけました。 初めてお会いした印象は、眼光鋭く近寄りがたいことでした。しかし「あなたが小山茂治さんの息子さんかね」と暖かく迎えてくれました。 東京から熊本に来たわけや、「肥後三郎」のいわれ、竹や黄櫨の木の材料に対する考え方、すべてが雲の上からの響きに聞こえました

素材の変革

私が弓具店を継いでから、弓具界にも素材の改革が始まりました。 弓の接着剤がニベから化学接着剤、これは湿気に弱い竹弓を、年間を通し引けるものになりました。そして、麻弦が化学繊維のケブラー弦。これは学生弓道に恩恵をもたらしましたが、これにより麻弦職人が激減しました。

また竹矢からアルミ矢に、これは高円寺の曽根さんが初めて販売を開始しました。すぐに学生に受け入れられていきましたが、一般弓士には感触が冷たく、金属音が嫌われ、価格も竹矢と変わらない事など、まだ拒絶反応があって直ぐには普及しませんでした。 しかし学生弓道では的中が20~30%も高いデータ-が出たことなどで、次第に普及しました。

弊社も当初住友軽金属に製作にしてもらいましたが、真直性、アルマイトメッキ技術など問題点があり、アメリカの洋弓の矢を生産しているEASTON社に切り替えることにしました。

日本のアルミ加工技術は、単価の面でもイーストン社の製品に及びませんでした。アルミ製品は電気の缶詰といわれるぐらい電気を必要とし、電気料金の高い日本では不利は免れません。その後、国産メーカーは撤退し、現在学生弓道で使われているほとんどのシャ フトはイーストン社です。弊社は粘り強く交渉し輸入代理店契約を取得し、近年は年間30万本を輸入しています。

グラス弓の開発

次に、グラス弓の誕生に関してお話をします。 それは昭和38年頃、熊谷の高校生が弓を持って来ました。買った竹弓が一週間もしない内に笄(コウガイ)をだしたので交換をしてほしいと父親同伴で交渉に来たのです。しかし竹弓の決まりごととして「肩入れ三回」で後の責任を弓屋は持たないことを説明す ると、親子は立腹し、二度と弓は引かないと帰っていきました。

このようでは弓界の発展は無いと感じていた矢先、当時はボウリングと共に洋弓がはやり始め、その作りはほとんどがグラスファイバーの合板で出来ていることに着目しました。 その頃、私は大学二年で洋弓に興味を持ち、洋弓の練習場に通ううち、日本弓に無い合理的な道具や理論に触れ好奇心を湧かされました。 洋弓は的中のために、先ず弓道具の機能、そして、その後弾き方を追及します。和弓は、自分の射形を確立し、的中に結び付けようとする点に違いが有り大変勉強になりました。 洋弓の製造をしている守田芳佑さんと知り合い、洋弓、和弓の弓談義をよくしました。森田氏は和弓の良さを力説し、私は洋弓の合理性を力説し、その話の中で、何とかグラス和弓が出来ないかと相談し、二人で夜遅くまで議論し弓の理想を追及し、試作品を何本も造りました。

しかし今考えると、幼稚なものを造っていました。あれやこれやと失敗の連続でした。そんな時、日本の名弓といわれる弓を分析してみたのです。 例を挙げると、柴田勘十郎、服部喜寿、金子城康、吉十郎、じん十郎、肥後三郎、二羽雁、差矢弓それぞれが個性を持ったで、その特徴が弓の改良に大変役立ちました。 そして改めて日本弓の後れたことを発見し、当時の工場長であった山田清一さんも加わり徹夜をしながら「直心」というグラスの弓を作り上げ、昭和38年の和歌山国体に持ってゆきました。

しかし残念ながら苦心して作ったグラス弓の評価は非常に冷たいものでした。一部の方々の「洋弓みたいな弓は引けない」「節が無いのはおかしい」の言葉には愕然としました。 私は慣れない作業の連続とグラスの粉を吸い込んだのが原因で、一時は喘息を患いました。当時はまだグラス和弓の理解者はなく一部の人たちから弓道連盟に和弓として認定しないでほしいと請願があったりしていました。

そんな折、そのようなことがあったとは知らない私共に、理解を示して下さる方がおられました。日弓連会長、中野慶吉先生です。

先生があるとき店に立ち寄り、「今、連盟の会議でこんな話が出たよ『グラス弓は日本弓では無い、すぐに禁止して下さい』と言うから「わかった禁止してやろう、だけど年々高騰する竹弓の価格をグラスの様に安価にそして、何本引いても壊れない弓が供給出来る ならばね。あれは学生弓道の発展には必要だと言ってやった」この先生の一事で、グラス和弓は市民権を得たのでした。 これは同時に学生弓道を救ってくれたと、今でも中野先生には感謝しています。そして日進月歩の開発改良を続け、実技、練心、直心シリーズとして今日に至っております。その過程で的中定規が生まれました。

グラスの弓がコンピューターで分析計算できないか?このことを日大の工学部の学生に相談したところ、有限要素法で解析できるとの話で、早速プログラムをしてもらった結果、不思議なことにPCの中で、握り位置から矢の軌道に引くと3~4度下方に引き下 げられる。これは先生方がよく言う「下弦を撮る」の教えの裏付けで、上長下短の日本弓の特徴と思いました。

弦の仕掛けの位置を、筈一つ上にすることの証明で、T定規の角度を3~4度つけたものが誕生したわけです。 そのほかに弓が倒れないようにする「弓座」、「巻藁ネット」とゴム鏃など、今までに20を越える特許、実用新案を持つようになりました。 わが社は、年に一つはアイディア商品を作るように心がけています。わが社のコンセプトは物を作る職人集団でありたいと考えています。

カーボン竹和弓「清芳」

カーボンを挟んだ和弓を作る発想はグラスの弓を作る最初にありました。 笄の出ない弓が最初の目的で、外竹にグラスを貼り付けたら?内竹と外竹の中にグラスを入れたら?色々なアイディアを出す中で弾性の高いカーボンを張ったら?が有りました。 当時カーボン繊維は高嶺の花で値段は一㎏が一三万でコストが合わず断念。そして更にグラスを研究しているうち小松化成グラス担当の芦原さんがグラスを含め構造力学、材料力学のことなど色々アドバイスをしてくれました。 その中で芦原さんの「日本弓は竹の繊維を炭化することで曲げ弾性を強化する。これを800年前からしていることは日本人の知恵のすばらしいところだ」の言葉がきっかけでした。

それでは結晶性の高い炭素繊維を使うことは800年前からの究極の要求を満たす事だと気づき、縦に入れるか、横に入れるか、平らに入れるか、芯に入れるか色々議論、試作した結果手の内に捻りを加える日本弓の特異性から内竹、外竹の下に平らに貼り付ければ一番良い結果が得られると解ったのです。

開発途中では沢山の弓が折れました。まず炭素繊維と竹、木、と相性のいい接着剤を見つけること、そして、炭素繊維の種類、品質など、当初は挫屈、層間剥離など様々な挫折の連続でした。そして支援してくれた人々のお陰で結晶性の高いカーボンの反発力を利用し成りや形の崩れにくい、矢飛びの良い「清芳」が誕生したのでした。

またTBSテレビでも取り上げられ「京都の三十三問堂の通し矢に挑む」で、はたして現代の射手が江戸時代のように矢を通すことができるかというチャレンジものでした。京都の岡井満範士の指導を受け、指し矢と弓を作りに挑み、私が堂射の弓、弊社の矢師佐藤功男が矢を作り、お寺(蓮華王院)のご理解を得て、故岡井範士の監督の下、芦川射手、弓師の私、矢師の佐藤が、終戦後二度目のお堂に上がることを許され、この上ない感激を味わうことが出来ました。そして芦川先生は見事に矢を通すことができました。

大嘗祭の弓と矢の制作

弓師として一番の名誉ある思い出として今上陛下の即位の礼の弓、矢の製作でした。皇居内にある資料室でその資料を拝見し、まず感激したのが画かれた絵の美しさと正確性です。写真のない時代絵師が正確に写し伝統を記録、保存していることでした。驚きと同時 に仕事の重みに不安が湧きました。

製作内容は弓は三種類

宮内庁の仕様を参考までにそのまま記しますと

弓(甲) 梓材二糸巻キ下地蝋色漆塗桐模様金平蒔絵トシ、握り八小葵錦ヲ巻キ、上下二艶消シ鍍金具ヲ絹紫染絹付ケ組紐ヲ巻ク、三所二紅梅鳥ノ子紙二樺巻ヲスル、弭八艶消金鍍金仕上ゲトシ、弦は紫コウ染メ絹糸巻トシ上下二錦ヲ巻ク
弓(乙) 梓材二糸巻キ下地銀梨子地漆塗花蝶模様金中高蒔絵以下甲に同じ
弓(丙) 梓材二糸巻キ下地銀梨子地漆塗桐鳳凰模様金中高蒔絵以下甲に同じ
矢(甲) 箆は黒塗り仕上ゲトシ羽根八犬鴛の羽ヲ用イ、矧八紅梅鳥ノ子紙ヲ巻キ、樺矧筈八磨水晶ヲ用イル。数矢(一四本)ノ鏃八長根トシ、艶消金渡金仕上ゲ、落矢(一本)鏃八猪ノ目透雁股艶消金渡金仕上ゲトシ、鏑八磨水品トスル

会社に帰り、職人を集め説明し、それぞれ仕事を分担し試行錯誤の連続が始まりました。特に納品する期限はしっかりと決められているため、見たことのない材料捜し、蒔絵師の協力を要請するなど、てんてこ舞いでした。 私の仕事は、まず特殊なサイズの弓を打ち、糸巻きをし、漆を塗り仕上げたら蒔絵師に渡すことでした。 装飾を施す段階では、一つの工程が終わると次の工程の壁にぶつかり大変な思いをしました。

この仕事には正式な注文書が無く、再三担当者に発行を要請しましたが、昭和天皇の崩御で喪に服しているときなので、お祝い行事の注文書など出せないとのこと。従って不採用になったらどうしよう、などの多くの不安を抱えつつ製作していきました。 そして大礼の一ヶ月前に完成し、警察の警護のもと皇居の乾門をくぐったその時の充実感は、一生忘れられません。

結びに

今、環境問題が世界の課題になっております。弓の世界でも動植物を保護するワシントン条約により鷲、鷹の羽の入手ができなくなり、そして無節で素性の良い国内産の木材の入手が困難になるなか、マレーシアが森林保護のため木材の輸出を禁止にする処置が先日の朝日新聞で報道されました。

そして国内の竹の環境も厳しくなっています。今後これらの課題をどのように乗り切るかが小山グループの責務と認識し、弓界の皆様にお応えしたいと思います。

現在、私どもには、32人の社員がいます。それぞれが何らかの技術を習い手にし、切磋琢磨しております。米どころの新潟南魚沼郡の第一、第二工場では、竹弓、グラス弓を生産しています。埼玉県北本では弓道場を運営する傍ら矢の製作をし、販売拠点として第一地連の皆様にご信頼、ご愛顧を受けてまいりました。明治神宮、全日本弓道連盟中央道場に程近い代々木に支店を開設しました。

弊社は、代々小笠原流の重藤弓を始めとする式弓と式矢を作ることを日本で唯一お許をいただいている弓具店はであります。この責任を重く受けとめつつ「温故知新」をモットーに、先祖より受け継いで来た伝統の技を益々磨き、研究に励み、常に前進を続ける「職人集団」として弓道発展の一翼を担って行きたいと考えております。

幸い、次女夫婦が跡継ぎとして現在修行、勉強中であります。そのためにも、皆様の引き続いてのご支援、ご鞭挺を切にお願い申し上げます。

小山弓具 八代目 小山雅司

平成17年3月 東京都第一地区弓道連盟記念誌に寄稿

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