Koyama-Kyugu
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小山弓具の歴史(詳細)

小笠原流丸物の図

小笠原流式絵巻より(小山弓具蔵)

1780 初代 小山源祐(安永九年生まれ)
これより八代前、小山家先祖が徳川家康公に従い三河より江戸に下る。小山家の娘婿・源祐が、江戸弓師として開業。関東では大洪水が起こり、大阪では銀座・真鍮座が新設された。その頃アメリカは植民地の独立戦争の最中であった。
1798 二代目 光盛(寛政十年生まれ)
「とっちりとん節」が流行し、全国を風靡した。本居宣長の古事記伝が完成し、諸藩の米札の濫発が禁止された。この年の人口は、25,471,033人、対し江戸人口は、492,449人。三十三間堂の「通し矢」が盛んな時期であった。
1830 三代目 隆景(天保五年生まれ)
天保の大飢饉の最中にあり、天保四年、米価が暴騰し江戸に打ちこわしが起こる。京都では「エライコッチャ踊り」が流行。世情不安の時代であり、隆景の死から四年後、天保の改革が始まった。
1859 四代目 得蔵(安政五年生まれ)
安政二年、江戸大地震(安政の大地震)が起こる。このような世情を反映してか、当時江戸では賭弓が流行した。安政六年には、尊皇擁夷派に対する弾圧「安政の大獄」が起こり、吉田松陰・橋本佐内らが処刑された。外国貿易も活発となり、欧米各国との通商条約が結ばれた。
1890 五代目 成三郎(文政十一年生まれ)
明治二十一年「君が代」が国歌に決まる。明治二十三年には、米価高騰のため米騒動が起こり、以後、新潟・福井・京都など全国で米騒動が勃発した。この頃、花街には町矢場が多くなり、弓道にとっては荒廃の時代であった。
1900 六代目 勝之助(慶応元年~昭和二年)
小笠原流宗家(神田教場)に、御用弓師として出入りを許される。勝之助は、籐の製作に優れた才能を発揮し、特に重籐弓を最も得意とした。明治二十八年には、大日本武徳会が京都で設立し、再び弓道及び各種武道を包括して奨励普及をはかることになった。また明治五年は、新橋・横浜間に鉄道が開通した年でもある。
今上天皇誕生記念献上弓

今上天皇誕生記念献上弓

1930 七代目 茂治(明治三十七年~昭和五十九年)
十四歳の時、吉田音吉に預けられる。音吉は、江戸弓師・上村重兵衛、明治の弓師・佐野新五郎と師弟関係にあり、江戸弓師の流れを受け継いでいる。茂治は独立後、昭和五年皇太子誕生の折、現代弓師として、献上弓製作の栄を全国学校協会より受ける。このほか、昭和弓の考案などを手がけた。この頃は古武道再興の時代で、弓道人口も次第に伸びだした。明治三十五年「武術優遇例」が制定され、範士・教士の称号が授与された。明治三十八年、京都に武術教員養成所を設置。さらに昭和二十二年には、全国弓道連盟が結成された。
1986 八代目 雅司(昭和十九年~)
十四歳、斉藤勝原氏と寝起きを共にし、矢師として仕込まれ、二十歳で弓師・横山高芳氏に預けられる。グラス和弓の研究に携わり、昭和四十六年、グラス和弓開発第1号を和歌山県国体で発表。「実技」「練心」「直心」なども発売する。昭和四十七年、新潟工場落成。四十九年、本社ビル竣工。この間、米国イーストン社の特約代理店となり、ゴードン社日本総代理店権を獲得する。昭和六十二年には竹弓に炭素繊維を張り合わせたハイテク弓具「清芳」を発表。雅司は、この「清芳」で、久しく行われていなかった京都・三十三間堂の「通し矢」に挑戦し、その高性能を実証した。
今上天皇大嘗祭

今上天皇大嘗祭

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